備中松山城

画像
備中高松城                     2011年11月12日
 高梁は二度目の来邑である。つまらない話だが、街の名前が高梁で、城の名前が備中松山城というミスマッチの理由を、最近までは知らなかった。東北の山旅の帰りに、奥会津をドライブした時、幟がはためいていて、そこが河井継之助記念館だった。その後、継之助の人間形成に、山田方谷という人物がいることを知った。幕末の最後の老中が板倉勝静で、彼の懐刀が、山田方谷である。たまたま訪れた頼久寺では、勝静のうん回忌の記念茶会が開かれていた。
画像
そして、頼久寺のそばに、山田方谷の旧居跡もあった。
 以前、松山城まで行かなかったのは、山城が険しくて、歩いていく根性とゆとりが無かったためだが、今回は、街よりも城が目的なので、迷わずクルマを進めると、城見橋駐車場で車を止められ、ここからシャトルバスが出るシステムになっていた。城では、秋の陣という城祭りが開かれていて、道中には、城主の紋所の幟が、ずっと続いていた。バスを降りたふいご峠から天守までは、公称20分の登りだが、山慣れた脚でも、なかなかに負担のかかる山道だった。
画像
途中の大手門跡は、紅葉と人工の石垣と、天然の岩盤との組み合わせが絶妙で、なかなかの景色だった。二の丸まで上がって、ようやく天守閣の姿が見えた。切符を買って、本丸に入ると、二層の可愛い天守閣がある。山城なので、このサイズで十分な感じだ。天守閣の眺めは、二の丸を中景に、遠く高梁の街が望めて、ここも絶景だった。
画像
二の丸で、お城弁当を買ったが、竹の皮を編んだ入れ物に、中身も美味しく、特にデザートのピオーネが絶品だった。下る途中からも、高梁の街が見えて、満足の備中松山城を下城した。
 最後に、備中松山城の薀蓄をいくつか紹介する。頼久寺の庭を造った小堀遠州は、国奉行として、この城の改築をしたらしい。忠臣蔵の大石内蔵助が、城の明け渡しに活躍したのも、この城である。そして、幕末に松平定信の孫にあたる板倉勝清と山田方谷コンビの活躍も、この地のことだが、果たして、城まで登ったのだろうか。古い写真を見ると、山の中に、寂しく天守閣があるが、最近は修復が進んで、その意味では、秘境感が薄れている感じだ。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック