チェスキー・クロムロフ

 ポーランド・チェコの旅行から帰ってきた。未知の国ポーランドを訪ねるのに、バルト三国と組み合わせるか、チェコと組み合わせるか悩んだのだが、チェコは2度目にもかかわらず、後者を選択した。この選択は、リトアニアの杉原千畝遺跡と、チェスキー・クロムロフとの選択でもあったのだが、後者の選択に落ち着いた。それほど、チェスキー・クロムロフに行きたかった、ということになる。
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 チェスキーの意味は、一般にチェコの、と訳されることが多いが、正しくはボヘミアの、というのが正しいらしい。というのも、チェコの国内には、モラヴスキー・クロムロフというモラヴィアのクロムロフという名の都市があるからである。それはさておき、このチェスキー・クロムロフは、中世の姿をそのままに残した都市、として世界遺産に指定されている。問題は、なぜ、残されたのか、別の表現をすれば、途中で街が発展せずに、見捨てられたのか、という疑問である。一つには、19世紀に城主(シュヴァルツェンベルク家)が隣の城(フルボカー城)に移り、鉄道網からも外れ、寂れたとされているようだ。ただ、一番に気になったのは、その頃の人口構成が、ドイツ人が圧倒的に多く(約8割)、チェコ人が少なかった、という事実だ。第一次世界大戦は「民族自決」という美名のもとに、一応の終結をしたわけだが、チェスキー・クロムロフにおいては、少数派のチェコ人の手に落ちた。ナチスドイツを擁護する気持ちは毛頭ないが、ナチスドイツのズデーテン併合は、この「民族自決」を逆手に取って、正当化したことは間違いがない。最悪だったのは、第二次大戦後、これらのドイツ人が「追放」されて、チェスキー・クロムロフが寂れてしまった、というのが、どうやら真相のようだ。もう一つ、この後の「無人地区」にスロバキア系のロマを移住させたにもかかわらずロマに対する差別があったのも、一つの原因のようだ。もう一つ、文明的な社会主義では、封建的なものを破壊しよう、としたらしい。中国の文化革命と似たような考えだが、一番の衰退の原因は、二次大戦後の、政策にあったようだ。プラハの春は、政治的には「失敗」に終わったが、チェスキー・クロムロフが補修されるようになったのは、プラハの春という、1960年代以降のことだという。
 我々が、最初のチェコを訪れた時には、残念ながらチェスキー・クロムロフは、観光コースには、組み入れられていなかった。今でこそ、人があふれるような、大観光地だが、その裏には、なかなか微妙な問題が潜んでいることを、今回の旅で、初めて知った。

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