タシケント 日本人墓地 シルクローど真ん中渦絲(ウズベキスタン)道中記⑪

 タシケントは、近代都市である。ソ連邦時代は、ソ連で4番目に人口が多かったそうなので、当時としては、中央アジアの首都としての機能を果たしていたのだろう。タシケントには、地下鉄もあり、現在の発展途上国であるウズベキスタンには、そぐわないスケールだが、ちょうど、ウィーンが、小国オーストリアのというよりは、大ハプスブルグ帝国の首都であったのと、似ているような気がする。1966年、タシケントで直下型の地震があったそうで、現在の緑の多いヨーロッパ風の街並みは、その後の都市計画で造られたとか。個人的には、中央アジアのパリとでも言いたくなるような、素敵な街だった。タシケントは、昔、焼き物の生産をしていて、まわりの村や町から、石がたくさんある町と誤解されて、「石の町」というネーミングになった、と到着時に聞いた。中国では石国と言われ、中国に住んでいたソグド人は、石姓で呼ばれたらしい。玄奘を案内した人に、石槃陀という人がいたので、ひょっとして、タシケント生まれか、タシケントにゆかりのある人だったのだろう。ついでに言えば、ブハラは安国で、さすると安禄山もウズベキスタンゆかりの人になる。
 さて、タシケントの都心に入り、見たような風景の場所に来た、と思ったら、初日に泊まったウズベキスタンホテルだった(13:30)。昼食は、ここの17階のレストランでいただいた。上からは、近代都市タシケントの街並みが、きれいに見えていた。
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午後の見学の最初はウズベキスタン国立歴史博物館だった(15:00)。写真チップが25000スムなのだが、日本円で1000円の価値があるのかどうかは、微妙だった。時間も押しているので、フィルズ氏は、新幹線並みのスピードで、解説していた。できるだけ、彼のそばで聞いていたのだが、ちょっとでも、熱心に鑑賞していると、あっという間に、遠くの方で、解説をしている、という有様だった。ここの超目玉は、ウズベキスタン南部のテルメズで発掘された、ガンダーラ調の仏像で、ストゥーパの中に入っていたらしく、保存状態がなかなか良かった。
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この仏像は、三尊の形式だが、中央は仏陀なので、左右は阿難と迦葉ということになる。そのように見れば、そのようである。写真には撮ったものの、落ち着いて鑑賞できなかったのが、残念だった。ちなみにテルメズも玄奘ゆかりの場所である。博物館を出て、しばらく歩いてから、ナヴォイ劇場へ行った(15:55)。
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この劇場は、オペラやバレエを上演するための劇場だそうである。残念ながら、修復中ではあった。設計はロシア人らしいが、中央アジアのデザインを取り入れたもので、何よりも、シベリア抑留の日本人捕虜によって、建設されたことで知られている。建物のそばを、通り抜ける時、日本人捕虜が、理不尽な労働にもかかわらず、立派な仕事をやりぬいたことを思い、思わず目頭が熱くなってしまった。この劇場は、タシケント地震でも、ビクともせずに、多くの市民の避難所になったらしい。思わず東日本大震災のことが、オーバーラップしてしまった。また韓国セウォル号事件と、何と責任感が違うものかと、思ってしまった。このまま、アミール・チムール広場まで歩いて行き、チムール将軍の騎馬銅像を見学した(16:25)。
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ウズベキスタンでは、何かと、チムールを、民族の英雄に仕立てている感じがした。ホテルのからバスに乗り、最後の見学地である、日本人墓地へ行った(16:45)。墓地は、イスラム墓地の奥の一角にあった。
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きちんと、各々の墓石があり、出身の県の名前も刻んであった。
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長崎の名前もあり、心からお祈りを捧げた。ここには、桜の樹が植えてあった。彼らは、ナヴォイ劇場建設の折り「必ず生きて日本へ戻り、桜を見よう」と誓ったのにもかかわらず、無念の死を遂げた人々を慰めるための桜だった。ここでも、涙が流れて、仕方がなかった。
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 『安らかに 若葉桜の 日本墓地』(大和魂 世界に誇れり)
これにて、予定の観光は、全て終了して、最後の夕食となった。
 ウズベキスタンの食事については、一度書いたが、時間が早くて、お腹が空かないことと、全体としては、まだ食していないという理由でラグ麺になった。おまけに、デザートは、これもみんなが希望したアイスクリームになった。ラグ麺には、トッピングとして、辛い香辛料がついてきたので、2回ほど入れてみたら、担担麺みたいな辛さになって美味しかった。麺は、明らかにシルクロードの食物なので、最後に食べることができて良かった。アイスクリームは、日本の昔のアイスクリンに似ていたが、味は濃厚で美味しかった。

この日の道中で、フィルズ氏が、何か質問することはありませんか、とみんなに聞いて回っていたので、サッカーと、ライバル国のことを聞いてみた。もともとこの国は、(遊牧民族の伝統で)格闘技が盛んで、柔道や空手も盛んだったとのこと。現在は、サッカーが一番人気で、国内にプロリーグがあるとのこと。
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日本で行われた、アジア選手戦で優勝したのが、最高の成績で、残念ながらワールドカップには、今回も韓国に敗れて、手が届かなかったらしい。ウズベキスタンは、人間の平等を旨としているので、国内外のどの民族とも、仲よくしている、というタテマエの発言だった。ただし、タジキスタンとは、アムダリア川の水利の問題で、国として、微妙な関係になることがある、とも話していた。旅に行く前に、一夜漬けで、NHKの「新シルクロード」を読んだら、ブハラにユダヤ教徒がいて、当地のイスラム教徒とも仲良く共存していたのだが、最近、イスラエルや米国への移住者が多く、若者が少ないので、ユダヤ教徒のコミュニティがなくなりそうだ、と書いてあった。ブハラに行った時、このことを質問することをすっかり忘れていたのだが、フィルズ氏から、話してくれた。国内には、三つの都市(ブハラ、サマルカンド、タシケント)にユダヤ人がいて、ブハラには、約200人いて、シナゴーグもある、と話していた。タシケントのユダヤ人は、ロシアから移住したユダヤ人の新しいコミュニティがある、とのことだった。歴史的に、ウズベキスタンのイスラムとユダヤ人とが、友好な関係だったことは、特筆すべき事実なので、もっと世界的に知られて良い事実かもしれない。
今回の旅行記は「シルクローど真ん中渦絲道中記」とした。ブハラが。中国とローマとの、中間地点にある、と聞いたからだった。実際に旅してみると、想像以上に、ウズベキスタンは、シルクロードのど真ん中だった。一番の衝撃は、サマルカンドのソグド人の壁画だった。西はアフリカから、東はコリア半島まで、交易をした範囲を、壁画として我々に示してくれていた。またシルクロードにかかわった人物のうち、相当数の人たちが、サマルカンドを訪れていたことも分かった。①アレキサンダー大王(紀元前4世紀)②張騫(紀元前2世紀)③玄奘(7世紀)④イブン・バトゥータ(13世紀)などが代表である。渦(ウズ)は文字通りウズベキスタンが過去から現在に至るまで、民族の渦まく場所であり、絲(ベキ)は、中国でシルクロードのことを絲綢路というそうなので、そこから「ウズベキ」と読ませた。
日本とウズベキスタンとの関係は、3つほどあった。一つは、すでに紹介したシベリア抑留である。二つ目は、最後のハーン国の収蔵品の中に、日本の伊万里焼があった。中国との交易品とのことだった。三つ目は、現在の関係である。独立当時、日本からODAの援助があり、現在は「金」の形で、日本に借款を返しているとのことだった。ISUZUのトラックは、2台見たが、貿易関係は希薄なようだ。直接の関係ではないが、平城(なら)の都にソグド人が来た形跡があるらしい。
レストランから空港までは10分ぐらい、ほとんどお土産を買うお店もなければ、時間もなかったので、スムを全部使い切っていて、良かった。(ちなみに、スムは国外持ち出し禁止)帰りは、ジェット気流が追い風になるので、早かった。ひと眠りしたら、もう朝の軽食の時間になっていた。成田からの帰りが、中央道の工事で渋滞したが、無時に帰還した。

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