憲法の自縛

 5月3日は、憲法記念日である。前日に、NHKは、憲法に関する世論調査を発表した。皮肉なことに、A総理になってから、憲法改正は必要ない、という世論が増加傾向で、逆に、改正の必要がある、という世論は、減少傾向とのことだった。日本国憲法が、大嫌いのA首相としては、まことに皮肉な結果なのだが、これは冷静に考えれば、憲法第9条が、「変遷」されたからである。「変遷」という言葉は、聞きなれない言葉だが、現在読んでいる「憲法読本 下」の21に、「憲法の改正と変遷」という項目があり、その中で知った。もともと、大学では、法律を学んだはずなのに、この言葉を知らなかった、ということは、まことに恥じ入るばかりである。ちなみに「変遷」の意味は、ほんらいなら違憲であるとされるはずの状態が、長期にわたって継続され、そしてその状態が一般に疑われなくなり、それが憲法の意味であると認められるようになった現象を指す、とのこと。是非はともかくとして、客観的に見れば、憲法第9条は、作られた当時は、100%文字通りだったのだが、年月を経て「変遷」したようだ。憲法記念日特集の9党の主張を聞いていたら、自衛隊が、憲法違反だと、認識しているのは、共産党だけで、他の政党は、合憲と主張していたから、間違いはないだろう。
 憲法の日に、考えたことを少し書いてみたい。メディアは、何気なく「憲法改正」などと言う文言を使っているのだが、憲法改正の「限界」を知っていて、使っているのか、知ってはいるが、そのことには触れないで、使っているのか、という疑問である。憲法には、いわば「生命」にあたる部分があって、この「生命」部分を改正もしくは、変遷することには、限界がある、と言うことである。日本国憲法の「生命」とは、日本国憲法の三大原則、つまり、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3点と考えるべきである。国家が主権であるらしいJ党の案などは、限界を超えている、ということになる。つまりは、「超改正」(この場合、正という字を使ってよいのか、若干の疑念は残るが)と「改正」とは、質的にまったく別物である、と言うことである。なので、このことをごちゃごちゃにして、一杷一絡げにして「改正」の是非を問うのは、聞かれる方も、どう答えたらよいのか、分からない、と言うのが真実だろう。各党の主張をよく聞いていたら、J党の別働隊が3党あって、憲法改正に関する限り、「与党」が5党、「野党」が4党という色分けだった。この日の、討論で透けて見えたのは、首相のしたたかな戦略だった。得意技は、近い人に、いろいろと言わせて、結論がどちらかに転んでも、傷が浅いように仕組んでおいて、もともと考えていた「こと」をリーダーシップを発揮したと見せかける、という方法である。現在仕掛けていることは、「今のところ、憲法第9条を改正する環境ではないが、憲法そのものは、70年近くも経ったので『現実』にそぐわないところもあるので『まずは、改正の論議をしましょう』とのスタンス」を、取っていることである。もちろん、本音は、別のところにあるのだが、それは、上手にオブラートに包んでおいて、論議をしないのは、『卑怯』でしょう、という恫喝でもある。この戦略で、何が何でも、参議院選挙、できればダブル選挙で、両議院の3分の2を、5党で確保したい、と言うことである。次の戦略は、憲法第96条の「改正」をもくろんでいることは、100%間違いない。議論をすることが、悪いわけではない、という主張である。自分の考えを言わせてもらえば、憲法第96条も、憲法の「生命」の部分だと思っている。憲法が、自分の「生命」を守るために作られたのが「憲法第96条」とも考えられるからである。したがって、結論を先に言えば、憲法第96条の「改正」は、改正に非ず「超改正」の種類に相当すると思う。どちらにしても、今度の参議院選挙の争点は、5党で、3分の2を確保するか、させないかが焦点である。

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