イラン・ペルシャ史

 現在、レバノンの歴史を個人的にまとめているのだが、これが、なかなか面白い。本来は、自分のためにまとめたものなので、正直「無責任」なのだが、せっかく作った「大作」なので、ネットに挙げてみることにした。ただし、レバノン史ではなくて、「イラン・ペルシャ史」である。

イラン・ペルシャ史
 広義のイランは、イラン、アフガニスタンを含めて、パミール高原までを指す。イランは、アーリアと語源が同じであり、故郷を出たアーリア人のうち、イランに定着したのがイラン人で、インドに定着した人々が使ったのが、仏教に縁が深いサンスクリット語で、ペルシャ語と親戚関係にある。人類史上、遊牧を始めたスキタイ人も広義のペルシャ系民族といわれている。BC(紀元前)2世紀に、漢の武帝から遠征を命じられた張騫が向かった先の、大月氏も、同じくペルシャ系民族といわれている。中国では、広義のイランを胡と称したので、こちらから将来したモノには、多く胡の字があてられていて、胡麻、胡瓜、胡坐など、枚挙にいとまがない、張騫が中国に将来したと伝えられているもののうち、葡萄はペルシャ語のバーダ酒からきている。また苜蓿も馬(汗血馬)と共に重要なものだった。
 さて、今回行く、狭義のイラン・ペルシャは、西方はエルブレス山脈・ザグロス山脈、東方はアフガニスタンに囲まれた高原の国で、「薔薇と鶯」という言葉がある。比較的過ごしやすい国ともいわれている。歴史的に見て、ザグロス山脈の西側がイラン民族、東側がセム民族のテリトリーだが、この地域で古代オリエント文明の花が開いた。この文明圏の一翼を担ったミタンニ王国も、ペルシャ系の民族の国と言われている。オリエント文明で、最も有名な人物が、ハンムラビ法典を作ったバビロニアのハンムラビ王だが、このハンムラビ法典は、ペルシャの古都であったスサで発見された。この地(イランの地)は、詳細は不明だがエラム人のエラム王国があり、この国がバビロニアを攻略した時(BC1200頃)に、持ち帰った戦利品が、ハンムラビ法典だった。BC8世紀になり、イランの地ではペルシャ人の一派であるメディア人がメディア王国を作り、アッシリアを滅ぼして、強国となった。余談になるが、苜蓿をギリシャ語でメーディケーというのは、この名前が語源なので、メディア人は、遊牧系のイラン人だった可能性が高そうだ。ペルシャ帝国の最初は、アケメネス朝を創建しキュロス2世である。彼が、メディア王国を滅ぼしたのがBC550年だった。このキュロス2世がバビロニアを平定し、バビロンを解放した時の出来事が、旧約聖書で有名な、バビロンの捕囚の解放である。ユダヤの恩人がペルシャ人というのは、歴史の大いなる皮肉である。ペルシャ帝国最大の王がダイオレス1世で、はるかエジプトも支配し、ファラオも兼任した。
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彼が、ダーダネルス海峡を越え、スキタイを討ち、トラキアを平定したのち、ギリシャに向かったのは、歴史の必然だが、マラトンの戦い(BC490)で撤退した。子の、クセルクセス1世は、リベンジで、第二次ペルシャ戦争を仕掛けた。この時の出来事が、テルモピューレの激戦であり、その後アテネを焼き討ちしたが、サラミスの海戦(BC480)で敗れ、撤退した。BC330年になり、ギリシャマケドニアのアレキサンドロスが、逆にダーダネルス海峡を越えて、ペルシャに攻め込んだ。アレキサンドロスは、破竹の勢いで、ベリシャ軍を破り、一旦エジプトを平定したのち、都スサを占領した。アレキサンドロスによる、ペルセポリスの焼き討ちは、アテネのリベンジだとされている。その後、アレキサンドロスは、ダイオレス3世の娘とスサで結婚して、ペルシャ帝国の後継者となったが、翌年急死した(BC323)。
アレキサンドロス帝国の、アジア部分を後継したのは、セレウコス(朝)だった。BC3世紀になると、遊牧系イラン人のアルケサスが王朝をひらき、パルティア王国として、繁栄した。パルティア領内には、ギリシャ人のポリスがあり、一種の自由都市だった。セレウコスとパルティアの時代は、ヘレニズム文化が花開いた時代だった。
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紀元を挟んだこのころの時代には、東に漢帝国、西にローマ帝国が並立し、シルクロード(張騫が活躍した)が開かれたが、この交易路を実質的に仕切ったのが、パルティアだった。紀元97年、西域都護の班超(虎穴に入らずんば虎子を得ず)からローマ(大秦国)へ派遣された甘英は、パルティア(中国では安息といった)まで到達したが、妨害にあって、引き返したとされている。226年、アルダシールがササン朝ペルシャを創始し、パルティアを滅ぼした。260年には、エデッサで、ローマ軍を破り皇帝を捕虜にした。この時、多くのローマ人を連れてきて、ペルシャ国内の土木工事・建築に使役したようだ。ササン朝の最盛期は6世紀のホスロー1世の時代で、この文化が、唐に伝わり、唐では空前の胡風ブーム(胡旋舞や胡姫)を起こした。この流れが、遣唐使によって、奈良まで伝わったことは、承知の事実である。7世紀に入り、ムハンマドがイスラム教を始め、やがてその勢いは、ペルシャも席巻し(642年)、やがて、この地方は、イスラムの時代に入った。現在のイランは、シーア派の国だが、シーア派の祖とされている4代カリフ=アリーが反対派に暗殺され、これに乗じたムアーウィヤが、661年にウマイヤ朝を開いた。しかし、ペルシャ出身の英雄アブー・ムスリムの活躍があり、750年にアッバース朝が興る。このころ有名なタラス河の戦い(751年)で、唐軍を破り、この時に、製紙法が伝わったとされる。イスラム帝国(アッバース朝)は、次第に地方の政権が生まれるが、874年に、イラン東部でサーマーン朝が成立した。10世紀に入ると、イランには、ブワイフ朝が興った。この政権は、シーア派の政権で、やがてバクダッドを制圧した。この王朝は、カリフの宗主権を認めたので、日本の幕府に似ているともいえる。次の11世紀になると、イランには、トルコ系のセルジューク朝が成立し、この政権もバクダッドを制圧した。この勢いで、聖地エルサレムを制圧したのが、後の十字軍(1096年~)を引き起こした。十字軍のさ中、イランではホラズム・シャー朝が自立し(1194年)、イラン史は目まぐるしく動く。この政権は、1218年、世界を揺るがす、とんでもない事件を引き起こす。1215年に、新興のチンギスハン政権と相互友好条約を結び、ハンは友好の印として、通称使節団を派遣したのだが、ハンを若僧と見た、アラーウッデーンが、使節団の殺害したことから、世界史に激震が走った。若き狼軍団は、瞬く間にユーラシア大陸を席巻した。狼軍団イラン総司令官イルチカダイが、フランス王ルイ9世に、イスラム勢力を挟み撃ちするための協力要請の書簡が残されているほどである(1248年)。その後、狼軍団は、チンギスの孫にあたるフレグがイランの行政権を握り、その尊称から、イル・ハン朝と呼ばれている。1258年には、バクダッドを攻略して、名実ともに、西アジアの宗主となった。13世紀は、マルコポーロの時代でもある。マルコが、17年使えたフビライの国から、帰国の途に就いたのは、1290年、イル・ハンのコカチン姫を、イル・ハンの4代アルグンハンに妃に連れていくためだった。1290年に泉州を出発したマルコ一行は、1293年イル・ハン国のホルムズに上陸した。
歴史は皮肉で、コカチンの相手の、アルグンハンは、不幸なことに亡くなっていた。結論だけを書くと、コカチンは、アルグンの息子ガザンに嫁いだ。マルコ一行は、イスファハンを経由して、黒海に出て、無事故郷ベネチアに帰ることができた。このころになると、イル・ハン朝も、イスラム化してきて、カザンがハンになった時代に、イスラム教を受け入れた。マルコから遅れること33年後にイスファハンを訪れたイブンバトゥータ(マルコと並ぶ大旅行家)は、この町が、シーア派とスンニ派とに分かれていたことを伝えている。この頃、中央アジアには、もう一人の鉄人がデビューしていた。その名をティムールと言い、やがて東西に、第二のモンゴル帝国ともいうべき帝国を作った。鉄人は1388年には、イランを征服し、93年にはバグダッドを攻略した。1402年には、オスマントルコを破り、取って返して、明に遠征中に亡くなり、さしもの帝国も衰えていった。そして、ユーラシアの両端で、15~16世紀に勢力を維持したのが、東の明帝国、西のオスマントルコ帝国だった。そんな中で、イランでは1502年、イスマイール1世が現れ、シーア派を国教とするサファヴィー朝を創建し、ティムール国を滅ぼした。この時代、世界史的には、大航海時代で、内陸のペルシャは、地味に感じるが、サファヴィー朝中興の祖ともいうべき、アッバース1世が現れると、1622年には、ポルトガルに占領されていたホルムズを奪回する(他にも、アゼルバイジャンやバグダッドを、オスマンから奪回)など、国力の回復に努め、新都イスファハンを建設して、「世界の半分」と言わせるほどの、繁栄を謳歌した。さしもの、サファヴィー朝も、18世紀に入ると、ナーディル・シャーが現れ、アフシャール朝にとってかわられた。この頃になると、ヨーロッパの勢力が強くなってくる。18世紀末に成立した、カジャール朝は、今に続くテヘランを都にした王朝だが、19世紀に入り、南下政策を続けるロシアと、数次の戦争で敗れ、コーカサス地方をどんどんと割譲した。南からは、イギリスも進出し、当時の清やオスマントルコなどと同様に、半植民地化の状況に陥った。帝国主義の進出は、石油の発見により、より拍車がかかった。このような中で起こった民族運動が、1891年の、タバコ・ボイコット運動である。1904年の、日露戦争による日本の「勝利」は、アジア各国に影響を与え、カジャール朝に於いても、立憲革命がおこった。イラン憲法が制定(1906年)されたものの、英露は、露骨に介入し停止させた。一次大戦では、中立宣言したものの、ロシアとトルコの戦場になり、国内は疲弊した。ロシア革命の後、ロシア軍が撤退し、イギリスの影響が強まった。1921年、イギリスの肝いりでレザー・ハーンがクーデターを起こし、やがて政権を握った。パーレビ朝の開始である。二次大戦中、レザー・シャー(25年からシャーつまり国王になる)は、親ナチスとみなされ、戦後退位し、後を継いだのがパーレビ国王である。彼のもとで、民主主義も復活し、ナショナリズムが盛んになり、1951年、石油国有化宣言が出された(相対的に王権は弱まった)。しかし、国際社会はこれを許さず、国内が混乱し、53年に再びクーデターがおこり、国王が復権したが、次第に強圧的になり(白色革命)、やがて反国王の動きが、イスラム革命に発展した。79年、ホメイニ師を最高指導者とする、政権が発足した。このタイミングで、イラクのフセインが、介入して、イラン・イラク戦争が始まった。ホメイニ以後、シーア派の国として、独自の活動をしている。

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