クルシュー砂州 トーマス・マン博物館 バルチック琥波句旅日記⑦

四日目(10月4日) 天気予報は、晴れとのことだが、雲行きは、結構怪しげな出発だった。クライペタの街中を走ると、すぐに波止場になり、タイミングよく、フェリーに乗り込んだ。フェリーは、ノルウェーで、何度も乗って、楽しみにしていたのだが、バスは乗ったまま、5分ほどで、対岸の港に着いた。ガイドは髭が立派な紳士風の方だった。いきなりの説明は、向こうに見える森は、人工の森です、と話していたのだが、もともと、ここには自然林が豊富で、盛んに伐採をしていたのだが、ある時に、砂嵐があり、村(ニダ)が砂で埋もれてしまう災害があり、それから、植林に励んだ、というのが、真相のようだった。各地から運ばれた、パイン(松)の仲間が沢山植えられていて、そのことが、世界文化遺産になっているとのこと。世界遺産の中では、最も地味なものかとも思うが、自然林や植林の松林に沿って、ドライブを続けると、1時間ばかり走って、トーマスマン博物館に着いた。道路から、少し登って、内海の見える高台に、トーマスマン博物館はあった。DSC09374Tマン博物館.JPGサマーハウスとして、トーマスマンが使用した建物だが、ナチスを批判して、資料のほとんどが没収破棄されたので、彼の蔵書は、ほんの数冊しか、残っていない。DSC09371本.JPGただ、杉原記念館もそうだったが、窓からは、彼らが、確実に見たに違いない、同じ景色を共有できるというのは、とても幸せな、不思議な気持ちにさせられた。DSC09367.JPGサインをするノートがあったので、「トニオ・クレーゲルを読んできました」と書いておいた。彼の故郷は、リューベックだが、ナチス時代に、リューベックの面汚し、とののしられ、戦後和解して、23年ぶりに故郷に戻ったらしい。「トニオ・クレーゲル」の中でも、歓迎されない、故郷が出てくるが、彼の思いの中に、バルチック海があったことは確かで、ニダの別荘も、きっと、このことが関係していると思った。彼が、二度もノーベル賞をもらったとは、知らなかった。現在、ロシアは、日本の北方領土を返さないが、ソ連時代に、トーマスマンが、別荘を返せ、という交渉をしたが、ノーだったらしい。別荘はその後、リトアニアの領域に入り、彼の息子が、別荘を買い戻した、とのことだった。この後、ニダの町の先にある、トーマスマンが、「北のサハラ」と呼んだ、バルニッジヨ砂丘を見学した。スケールでいえば、鳥取砂丘の方が、大きいようにも思うが、ある時期には、ニダの村を飲み込んだ歴史もある大砂丘で、普仏戦争(説明では、ドイツとフランスとの戦争)で、フランスの軍隊を置き去りにした、という、悲劇(バターン死の行進よりも残酷)のモニュメントもあった。砂州の右側がバルト海の青い海で、白波が立っているのに対して、左側は、内海で白く光っていたのが印象的だった。DSC09378バルト海.JPGここから、2㎞先はロシアカリーニング州だそうである。髭のガイド氏に、砂州の先っぽを、ロシアから返還してもらいたくないか、などと質問していたが、答えは、ニェと言ったかどうか。歴史上、ほとんどリトアニア領だったことはなく、長らく(600年ぐらい)ドイツ領だったかららしい(小リトアニアという言葉は、あるようだ)。砂丘を、遊歩道から離れて、先まで進むと、ニダの町が見えるビューポイントがあった。DSC09383ニダ遠望.JPG松林よりの高い建物は、禁止だそうで、さっぱりとした、清潔感のある風景だった。砂丘見学の帰り道、驟雨に見舞われた。ニダの町に戻る途中の、教会は、萱葺きだがモダンな教会で、それでもマリア様がいるので、カトリック教会だった。
クルシュー砂州 ニダ降る雨は 悪戯さ雨』(バルト荒波 内は優波)
昼食は港近くのレストランだった。魚料理(カマス)で、さっぱりしていて、美味しかった。出発の時に、豪雨が降り出し、スーパーで買い物をした後も、豪雨は衰えずしばし、スーパーの軒先で雨宿りとなった。結局、見切り発車で、雨中の散策となった。DSC09396民家.JPG漁師の家を改装したサマーハウス群の中を、歩いて行くと、燻製のかまどや、干し魚の棚があった。港まで行くと、昔の帆船(漁船)が係留されていて、遠くには、先ほどの大砂丘が見えていた。DSC09399船と砂丘.JPG難産のニダ散策を終えて、戻る途中には、天気がすっかり回復していた。

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