リトアニア 十字架の丘 バルチック琥波句旅日記⑨

五日目(10月5日) この日は、出発が、8:00と早かったのだが、天気はバルトに来て、初めての晴れだった。気温は、3℃ぐらいで、とても寒く、原野のような原(恐らくは、牧草地か畑)が、霜で真っ白だった。DSC09439霜.JPG途中で、日の出を見て、一日の無事を祈願した。ルートは、クライペタから北上して、まずは、十字架の丘を目指した。ローマの歴史では、バルト地方から琥珀と木材を輸入していたのだが、森の国リトアニアをドライブしてみて、改めて、この事実が実感できた。今は、牧草地や畑も多いのだが、これは、リトアニア人の先祖たちが、開墾して今の風景にしたはずで、2000年もの昔は、もっと、森林が多かったのだろうと、想像した。抜け道を走ったとかで、予定よりも早く、十字架の丘に着いた。DSC09441野原.JPG途中、天気が晴からキリに変ったのだが、この頃は、曇りになり、気温は、本当に凍えるような寒さだった。まずは、記念用と祈願用の十字架を一個ずつ買い、祈願用には、世界平和と、自分の名前を書いた。お寺でやる、護摩札と同じ感覚である。門から入り、しばらく行くと、十字架に溢れた丘が見えてきた。まずは、自分の十字架をしっかりと立てて、丘をてっぺんまで登り、半周したら、ヨハネパウロ2世が寄贈した、立派な十字架があったので、記念写真を撮った。
 『DSC09447十字架の丘.JPG始まりは、1831年のポーランド蜂起の時の犠牲者記念するための十字架を立てたのが、始まりと解説していた。1831年のポーランド蜂起は、前年のフランス七月革命の影響で起こった、ポーランドの独立戦争で、この時の情熱を、ショパンが「革命」を作曲したことでも知られる。すっかり、ポーランド化していた、リトアニアの貴族も、「ポーランド人」として、この独立戦争を戦った。彼らは、カトリック教徒だったので、十字架で慰霊したと思われる。この場所は、リトアニア大公の城があり、聖なる地とされていたそうである。雰囲気は、全く違うが、イギリスのストーンサークルのような感じがあり、土地に、何かの力があるのかと思った。
祈りたる 十字架の丘 霧に濡れ』(世界の平和を 願いしクルス)
リトアニアからラドビアに入るあたりで、ラトビアはロシア人の割合が多く(30%ぐらい)リトアニアは、少ない(2%ぐらい)のは、パルチザンが活躍して、ロシア人が侵入できなかった、ということを力説していた。ただ、「森の兄弟」と呼ばれた、対ソパルチザンが、ソ連ボルシェビキに対して、徹底抗戦して、英雄化されていることは、事実だが、ロシア人の割合問題を「森の兄弟」だけで、一刀両断に切り捨て捨てるのには、無理があるようにも思う。私見では、リトアニアの成り立ちと、ラトビアの成り立ちが、根本的に違うのが、その理由だと思う。リトアニアは、ドイツ騎士団に抵抗して、リトアニア国家を成立させた事実が一番に重く、ポーランドと、一体化してリトアニアのアイデンティティが希薄になった時、幸か不幸か(民族的には不幸だが)第三次ポーランド分割で、リトアニアの一部(小リトアニア)が、先進のプロイセン領になった事実が結果的には、ラッキーに作用した。この地で民族主義がはぐくまれ、リトアニア本体に、この民族主義を注入(リトアニア語の出版など)して、一次大戦でドイツ軍が侵入した時に、対ロシアの意識の高いリトアニアは、いち早く独立宣言をした。このような歴史そのものが、リトアニア人の割合の高さだと思う。

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