ラトビア ルンダーレ宮殿 バルチック琥波句旅日記⑩

ラトビアの国境は、近かった。シェンゲン条約なので、EUのマークと、ラトビアの標記があるだけの国境だが、少し先に、検問所の、遺物が残っていた。DSC09453ラトビア.JPG景色は、リトアニアもラトビアも同じだった。森林の割合は、リトアニアよりも更に高い、とのことだった。最初の観光は、ルンダーレ宮殿だった。このバルトのベルサイユと呼ばれるルンダーレ宮殿は、何もない田舎に、忽然と存在していた。DSC09459ルンダーレ宮殿アップ.JPGこの建物は、ロシア女帝アンナの愛人である、ビロン公爵の、夏の宮殿として造られた。季節は、秋なので、マロニエの並木道は、風情があった。DSC09456並木道.JPGただ、宮殿の外壁は、きれいに修復された感じで、悪く言えば、オープンセットみたいで、感激はしなかった。ただ、屋根の煙突の上に、コウノトリの巣があるのが、ほほえましかった。まずは、食事をした。宮殿の、台所だった場所で、食事をしたのだが、シュチエーションが良いので、見た目も味(サラダ、チキン、デザート)も良かった。いよいよ、内部の見学である。青いビニールのオーバーシューズを履いて、いきなり、接ぎの間の次がハイライトの「黄金の間」だった。DSC09467黄金の間.JPG18世紀にイタリア人が内装をした、という「黄金の間」は、金箔ながら、天井から床に至るまで、300年前にイタリア人が作った、オリジナルのものなので、とても値打ちがあるらしい。面白かったのは、長さが30mもある食堂で、何人食べられるか、という質問だった。ちょっと見、百人は食べられそうに思えるが、正解は60人だった。貴婦人の服装が、幅を取るので、このような数になるらしい。階段なども、通常の感覚よりも、とても広く、かつ段がとても低く作られていた。その先には、ダンスホールだった「白の間」を見学した。キューピーのような子供たちが、数多くレリーフされた装飾が、真っ白な漆喰で、彫刻されていた。ピンク色の「バラの間」は、四季の花が同時に咲いている絵があった。DSC09481薔薇の間.JPG最後に、クールランド公の寝室の正面からは、フランス式の立派な庭園が見えていた。DSC09488庭園.JPG「別料金なので、窓から見てください」と言われて、ショックだった。そもそも、ここが、バルトのベルサイユ宮殿と呼ばれるのは、フランス式の庭園があるはずだからである。正直、別料金でも、足を踏み入れたかった。ルンダーレ宮殿は、クールランド公国が、実質、ロシア支配に組み込まれた時代に、造られたものである。ピョートル大帝の姪にして、クールラント公妃(主権者)だったアンナが、ロシア帝国の皇帝の座に就いたことから、物語が始まる。クールラント公国とは、ドイツ系リヴォニア騎士団最後の団長であったケトラーが、プロテスタントのまま、ポーランドの宗主下のもとに、現在のラトビア南部に作った国である。アンナは、ロシア皇室からクールラント公に嫁し、未亡人になるものの、公妃として君臨した。ビロンは、若き未亡人の愛人の座に潜り込み、アンナがロシア皇帝になってからは、ロシア高官に優遇された。その後、クールラント公ケトラーの家系が絶えた時に、アンナからクールラント公国をプレゼントされたのだった。彼は、ロシア国民に憎まれたので、アンナの死後、疎まれてシベリア流刑された。その後、情勢の変化で22年後に許され、エカテリーナ2世の時代に、クールラント公に復帰するのだが、もはや老人だった。宮殿の完成は、息子のピーターの時だった。宮殿内には、ビロンや息子のピーター、そして彼らの妻や子などの肖像があり、このエピソードを知らないと、少しつまらない。宮殿の見学後、バスに乗ってからは、ほとんど白川夜船で、起きた時に、リガのホテルに到着していた。

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