ムゼウム敦賀 敦賀・京都紅葉紀行②

 鶏足寺からもとのPまで戻って、木之本IC(14:36)から、再び北陸道を走ると、敦賀は近かった(14:54)。トンネルを抜け、道が突き当たったところは、敦賀港だった。DSC00002敦賀港.JPG敦賀港は、存在そののが、感動的だった。背後には山が迫り、いかにも良港という感じの敦賀港は、昔の姿をとどめている様に感じられた。古くは、渤海国の使節が上陸し、近代には、1902年から、シベリア鉄道に接続する、ヨーロッパへの窓口となった、歴史の港である。そして、何よりも、迫害されたユダヤ難民が、この欧亜航路を利用して、敦賀港に上陸した。大迫辰雄というJTBの職員の回想によれば、杉原ルートを含めて、1万5000人のユダヤ難民が、この航路を利用したとのことである。DSC09999ムゼウム敦賀.JPG人道の港ムゼウム敦賀に入っていくと、ビデオが流されていて、シベリア鉄道を渡って、ウラジオストックから日本海に出た船が、ロシア(ソ連)の領海を出た時に、ユダヤ人の歌(現在のイスラエル国歌)が響き渡ったシーンが流されていて、感動的だった。今年(2019年)の秋に、リトアニアの杉原氏の史跡を見学したばかりなので、熱の冷めないうちに、ここに来られて良かった。ビデオでは、ウラジオストックには、ロシア国内のユダヤ人も、ここまではたどり着いたのだが、ビザがなければ、敦賀への船には乗ることができなかった、というドキュメントも、紹介していた。2階には、敦賀に着いたユダヤ人が、日本の時計店で、換金した時の時計が、「歴史の証拠品」として、展示されていた。ビデオでは、長い船旅で疲れたユダヤの人々を、無料で銭湯に招待したエピソードを紹介していたが、いい話だと思った。先ほどの大迫氏の回想の中に、在米ユダヤ協会が、ユダヤ人救出の斡旋を、当時のJTBに依頼し、その要請を受け入れた裏に、当時の外務大臣松岡洋右の外交感覚があったと、記されていた。リトアニアで聞いた、日本のユダヤ優遇の裏に、松岡洋右の影響があったことを、確認できたのは、なかなかのヒットだった。話が横道にそれるが、少し紹介したい。ユダヤ人がナチスドイツによって、迫害(ホロコースト)されていた時代に、欧米諸国も積極的に、ユダヤ人を差別していた。この時代、ユダヤ人を平等に扱った唯一の国が、日本だった。当時の国策に「八紘一宇」があるのだが、これに基づいて、1938年1月、満州国日本軍が「対猶太民族施策要領」を定め、同年12月、日本国五相会議において「猶太人対策綱領」を決定して、「ユダヤ人を平等に扱う」ことを決めていた。この五相のメンバーは、提案者板垣征四郎陸相そして東条英機首相、松岡洋右外相などである。松岡洋右は、満鉄総裁時代に、樋口季一郎少将の要請で、多くのユダヤ人難民の輸送に協力(オトポール事件)し、外相当時、三国同盟を結んだ時にも、ユダヤ人実業家に対して、「日本では、決して反ユダヤ主義を採用しない…このことは、私見ではなく、全日本帝国の総意である」という手紙を書いている。リトアニアのガイドの話では、日露戦争当時、日本の多くの債権を買ってくれたのが、ユダヤ人であり、日本は、ユダヤ人に対して、恩義を感じていたからだ、との説だった。敦賀のホテルに投宿した。

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