こんな時に旅行かよ 世界遺産プエブラ メキシコツアものがたり⑩

バスは、メキシコシティ郊外からプエブラに向かった。日墨関係では、陰の人物として支倉常長がいるのだが、プエブラは恐らく、支倉常長も、寄ったに違いない街である。DSC00736.JPGただ、日墨関係の最初は、常長より前に、フェリペ・デ・ヘススという人物が、秀吉時代の日本で宣教して、聖人になった(殉教)事実が、メキシコにおいては、大きな事実として、知られているそうである。プエブラは、ヌエバ・エスパーニャ(植民地)の時代に、メキシコシティと、港町ベラクルスとを結ぶ、重要な都市(宿場や宗教施設)として発展した街だそうで、一般的にはコロニアル都市といわれるが、ある時期には、ヨーロッパやレバノンからの移民が集まったそうで、インターナショナルな都市でもあるようだ。
 プエブラに向かう途中、火山が見えていて、プエブラは、どうやら、その山のふもとにあるらしい。町の入り口に、名前の由来になった、サラゴサ将軍の記念碑があったが、写真を撮り損ねた。サラゴサは、フランスのナポレオン3世がメキシコ獲得を狙って、ベラクルスに上陸した仏軍を迎え撃って、緒戦に勝利した将軍の名前であり、プエブラの正式名称は、プエブラ・デ・サラゴサという。また、プエブラは、メキシコ革命の舞台にもなった街だそうで、街中には、銃弾の痕が生々しい「革命記念館」DSC00751〇.JPGがあったが、素通りだった。町には、革命の町らしく、レフォルマ通りや、フアレス通りもあるが、不案内のまま、中心のソカロ広場に面しているのが、カテドラルだった。パリノートルダム寺院のように、双塔のスタイルで、内陣が金ぴかで、T氏が23金の装飾だとの解説以外は、さしたる話もなかった。個人的には、正教会風の内陣の壁が印象的だった。DSC00743〇アップ.JPGこの教会のステンドグラスには、この町の異称「天使の街」にちなむ天使のステンドグラスもあったが、見る暇もなかった。限られた時間内に、5か所を見学しなければならないので、「観光机上論」のツケと言うものだろう。2番目の見学が、「タラベラ焼工房」だった。DSC00748.JPG実際は、工房と言うよりは、土産店に、ミニ工房を併設したものだが、有名な焼き物なので、慌ただしい時間の中だったが、円筒形のミニカップを一つゲットした。この後で、昼食をテイクした。ここでは、名物のサルサ・モーレというチョコレートと唐辛子のソースを体験した。DSC00757.JPGこの町は、フランシスコ会が開発した町とされるが、有名なのは、サン・ドミンゴ教会らしく、我々の見学も、こちらだった。DSC00759〇.JPG外観は地味なのだが、内装は逆に、ド派手なバロックだった。正面には、「マリア被昇天」左手には、ロザリオ礼拝堂があったのだが、T氏の天使の蘊蓄で、終わってしまった。DSC00763〇.JPG確かに、キリストの3大天使が、祀ってあった。残り見学が2つで、まず、「砂糖菓子の家」を見学した。DSC00773.JPG女主人がリクエストしたという外観は、クリームを盛り上げたような形だが、それよりも、タラベラ焼のタイルで覆われた、外装の色が印象的だった。この建物は、迎賓館として建てられ、現在は、博物館のはずだが、「見る」だけの観光では、致し方がない。そして、最後の見学「エルパリアン市場」だ。ここで、フリータイムになり、買い物か、見学かをチョイスすることになった。とりあえず、買い物は終えていたので、プリンシパル劇場へ向かった。入り口でうろうろしていたら、インディオ風メキシカンの女性係員が、好意的に「中を見たいですか」と言われ、鍵で開けてくれた。中は、別世界で、円筒形の立派な劇場が、映画の一場面のように、広がっていた。DSC00788〇.JPG大感激して、外へ出ると、外は、どんちゃん騒ぎをやっていた。ヴェネツィアのカーニバルでは、仮面を被るが、こちらのカーニバルも、全員が仮面を被って、思い思いに、踊りまくっていた。DSC00777〇.JPG日本でも、阿波踊りなど、踊り狂うイベントがあるが、同じようなものだろう。いろいろと、欲求不満も多いプエブラだったが、この楽しいカーニバルを体験して、すっかり御機嫌を直した。集合したら、若干の時間があったので、店を覗いたら、お気に入りの小皿があったので、一皿ゲットした。欲張りな、「世界遺産ツアー」は、最後の9つ目の「ポポカテペトル山麓の修道院群」へ向かった。こちらのカーニバルは、音が凄いので、運が良いのか悪いのか、分からない、というのがT氏の見解だった。途中は、山が見えていて、のどかな田園風景だった。DSC00819〇.JPG
 バスが、機転を利かせて、我々は、少し手前から歩き出した。ドンパチの音が聞こえてきて、最初に見えてきたのは、フランス兵のような形をした帽子を被った人だったDSC00795.JPG(ひょっとしたら、サラゴサ将軍かもしれない)。こちらの、カーニバルは、どうやら、サラゴサ将軍の活躍を再現したような形式の、祭りのようだ。ドンパチと言うのは、空砲の銃を打ち鳴らすからで、まじめな話、耳を塞いでいないと、とても歩けたものではなかった。カーニバルの横をすり抜けて、要塞のような、サンフランシスコ修道院の構内に入った。DSC00801〇.JPG昨年、バルト三国を旅した時に、「北の十字軍」宣教の最前線の、要塞を兼ねた修道院を思い出した。ここの修道院の本体は、1917年のメキシコ大地震で、入室が禁止されていて、観光は当然として、ミサなども、屋外のテントで実施している、と言うのが、ちょっと痛ましかった。我々としては、門とその周りの壁を観賞したのだが、木製のドアと、赤い壁はオリジナルなので、「世界遺産」なのだろうが、ここまでして、「世界遺産」の数にこだわるのも、いかがなものかと思った。それは別として、当時の宣教師は、地元民の宣教に必死だったらしく、前庭にあった、当時の十字架DSC00804.JPGには、雨の神が彫り込まれていて、涙ぐましい努力が垣間見られて、面白かった。見学を終えると、カーニバルを休憩したお兄さんがいたので、ポーズをとってもらった。銃の造作が細かく素晴らしかったので、「ワンダフル」と言ったら、喜んでくれた。カーニバルの衣装は、仏軍(もしかしたらサラゴサ将軍)の人もいるのだが、圧倒的に多いのは、やはり、メキシコ軍で、サラゴサ将軍に率いられたのは、地元のインディオの人々だったようだ。マントの後ろの衣装のデザインが、トウモロコシやカボチャなどの、農作物を表現しているものが多く、ドンパチの音を除けば、楽しいものだった。我々は、裏道を通って、バスへ向かったのだが、自分自身は、とんでもないハプニングに巻き込まれてしまった。歩いていると、屈強なメキシコ軍のお兄さんたちが歩いてきたので、写真を一枚パチリと撮ったのが、とんでもない大失敗だった。DSC00817〇.JPG「お前は、日本人か」と聞かれたので(もちろん、スペイン語で)、「ハポン」と応えたのが、まずく、「大歓迎」をされてしまった。彼らの、メキシコ軍の帽子をかぶされ、鉄砲まで持たされてしまった。ここを何とか脱出して、戻ろうとしたら、もう一度、「少年兵」に掴まれて、「英語を喋れるか」と聞かれて、「リトル」と言ったら、その少年兵は、「アイアムスパニッシュ」と言われて、固い握手をして、分かれた。結局、ツアーからは、「行方不明」になってしまったので、最後の最後に、とんでもなく、迷惑をかけてしまった。
 『メキシカン 大爆発の カーニバル』(もみくちゃにされ 何とか生還)
ここからは、ひたすらに、メキシコシティへ、戻ったのだが、西へ向かっていたのか、いつまで経っても、太陽が沈まなかった。それでも、ベニート・フアレス空港に着いた時には、すっかり日が暮れていた。その後、レストランで、最後の晩餐を済ませて、日付が変わってから、機上の人になった。慌ただしかった、メキシコの旅だったが、思ったよりも、収穫の多い旅でもあった。物足りなかったのは、メキシコ独立の話が、皆無だったことで、そのあたりが、日本人ガイドの、弱さかな、と思った。戻ってきた日本は、予想してたとは言え、新型コロナ騒動の真っ最中で、しばらくは、逼塞していることになりそうである。

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