恐怖のスピンターンⅡ

 恐怖のスピンターンは、「大いなる勘違い」で起こった。スノーチェーンを付ければ、付けていない時よりも、安全なのだろう、と思ったのが、「大いなる勘違い」だった。囲碁の世界で、勝ったと思った瞬間が一番に危ないといわれるのだが、ちょっと似ているかもしれない。
 セウォル号の悲劇は、日本の東日本大震災に由来する、原発の悲劇が「事故」であったように、悲劇ではなくて「事件」の様相を強めている。時間がたつほど、おぞましいことが続出して、余りにも悲惨だ。初めは、問題点が百ぐらいあるのだろうと思っていたが、この調子では、とても問題点が百ぐらいでは、おさまりそうにもない。ひょっとしたら、韓国という国が、コンピュータが盛んなので、先進国になった、と「大いなる勘違い」をしていたためではないか、とさえ思える。日本は、明治維新以来、欧米風の近代化を進めてきたわけだが、先進国、と何となく言えるようになったのは、自分の感じでは、せいぜい30年ぐらいではないのか、と思っている。そういう意味で、韓国は、表向きはともかくとして、内容的には、これからの国だった、ということかもしれない。
 自分は、もともと、修学旅行無用論者である。これは、事故にはまったく関係がない大昔に、考えたことである。昔の文章を探せば、どこかにあるかもしれないが、大意はこうである。日本が、貧乏だった時代は、旅は、一生に数度ぐらい行くような時代だった。はるか江戸時代の話だが、現在の大分県に住んでいた、中江藤樹は、確か、伊勢参りと長崎への研修など、3度ばかり旅をしていた、と記憶している。基本的には、この状況が、日本の、高度経済成長の前の時代までは、続いていたように思う。そのような時代には、団体行動としての、修学旅行の意味があったのだと思う。しかし、現在は、学校生活における、単なる想い出づくりの意味合いが強い。そうであれば、団体旅行などせずに、もっと小さい単位での、卒業旅行をすれば、良いことで、現代における、団体の修学旅行は、大相撲でいえば、「死に体」みたいなものだと思う。もし、観光業者のために、やっているのなら、言語道断、というべきものだろう。
 そもそも、修学旅行の「引率」ほど、世間体との、落差のある仕事はない。なぜならば、世間体では、先生は、ただで、旅行が出来て、うらやましい、と感じるらしい。しかし、真剣に修学旅行を「引率」するものならば、多くの生徒の命を預かっているので、何も特別なことがなくても、胃がきりきり傷む痛む仕事である。この落差は、天国と地獄ぐらいの差であろう。
 修学旅行に限らないが、団体行動ほど、危険な行動はない。なぜならば、誰かが、取り仕切ってくれるので、安易に「命」を預けてしまうからである。もっとも良い例が、何度も遭難を繰り返す、団体登山の遭難「事件」である。もう一つの団体行動の罠は、みんなで渡れば怖くない、という方式で、ついつい「みんな」の行動に同調してしまうことである。今回セウォル号の場合、繰り返された「船内放送」に生徒たちが従順だった、とされている。変な例で申し訳ないが、杉原千畝が、人間という原点に立ち返って、あのような英断をしたわけだが、我々個人も、酷なようだが、究極の場合は、人間個人に立ち返って、自分の命を守る英断をするべきだったのでないか、ついつい思ってしまう。そういえば、あの大川小学校で生還した先生と生徒は、「みんな」に逆らって、行動した記憶がある。それにしても、引率した先生方は、大川小学校の先生たちと同様に、亡くなっ方が多いので、何らかの共通点があるのかもしれない。セウォル号に乗っていた先生方はどのような行動をしたのだろうか。まさか、生徒と同じレベルで、船内放送を、従順に聞いていた、とは思いたくないのだが。あの船長をはじめとする海運会社や、救助側の海洋警察などの対応を見ると、悲観的に思ってしまう。生徒たちのご冥福を祈る。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック