哲学の復興Ⅱ

 ぎあいえす親派による、リビアにおけるコプト教徒の虐殺は、末期的症状を呈してきたように感じる。窮鼠猫を噛むこという言葉があるが、現象的には、それに近い気がする。ぎあいえすは、ヨーロッパのムスリムに対して、全面戦争の指令を出しているはずだが、デンマークの事件は、その一つの動きなのだろう。そもそも、コプト教徒が、ムスリムに虐められている、という話は聞くが、ぎあいえすの、コプト教徒が、ムスリムを「虐待」したとの報は、ほとんど、盗人の言いがかりに過ぎない。あのような、言い分は、メディアが徹底的に、真相を追求してもらいたいものだ。そんなことに目をつぶって、ぎあいえすの「事実」だけを報道すれば、報道メディアそのものが、ぎあいえすの「宣伝塔」の役割を果たしている、ということになる。中東のアルジャジーラというメディアは、ぎあいえす側の映像を、一切流さないそうであるが、本来は、このメディアの態度が、一番正しいように感じる。確か、編集された映像は、基本的に「悪意」がある、という方針ではないのか。NHKが、ようやくぎあいえすを、イスラム過激集団ISと、呼び方を変えたのは、半歩前進で、他の大新聞・民放テレビなどに比べれば、英断だと思う。このままでは、イスラム教徒が可哀そうである。
 『哲学の復興』によれば「ヨーロッパ文化には、生命の概念がなく、死の概念もない」し「グロチウスは、旧約をもとにして、殺人・戦争を肯定し、人類一般の自然法とした」とのことだが、これは、「旧約」を共通の教典としている、イスラム教にも共通している考え、と思えば、最近のぎあいえすを含む、イスラム過激派の「やり口」が見えてくる。要するに、正義の「戦争」や正義の「殺人」を正当化する考えである。もし、戦争が、広義の殺人だと考えれば、現代の世界(クリスチャンもムスリムも、異教徒も)で、一番に大切にすべき『哲学』は、人間の最大の尊厳である、人の命を奪うことを、否定することではないだろうか。梅原氏によれば「明白な生死の概念を確立し、殺生を禁ずる哲学を必要としている」という表現になるのだが、同感である。現在、最も忌まわしい出来事は、ぎあいえす親派のボコハラムが行っている、少女による自爆攻撃である。第一に「殺人」が最悪で、つぎに自分の命を粗末にする「自死」であり、最も卑怯なのは、自立していない子どもを、結果として「虐殺」しているからである。別に、仏教が他の宗教よりも優れているとは思わないが、少なくとも「仏教では、山川すら生あるものと見る、生あるものが衆生、これをあわれむ」とのことだし「大乗仏教は、生を肯定するので、永遠の仏生を、どのようにとらえるか」のことだそうである。我らが道元は「生を明からめ、死を明からめるは、仏家一生の一大事なり」と述べているそうだが、日本人の考えこそ、せかいを救う可能性があるのではないだろうか。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック